松平広忠の墓所のサイズは東照宮の足元にも及びませんが(笑)。 さらに、死者の霊魂である 『死霊』だけではなく、生きている人から魂が抜けだした 『生霊:いきりょう』にもそれはあてはまると考えられてきたのです。
こうした時代の流れの中で、有名な菅原道真と崇徳上皇の事件が起こります。 平安京への遷都 桓武天皇は、早良親王の怨霊を徹底的に排除するため、風水・占い・迷信などを用いて、四神相応の地(玄武・青龍・朱雀・白虎、4つの神に守護された土地)に都を作ります。 これが持統天皇です。
11こんなに災害や疫病が多いのは帝王がだらしがないからだ、ということです。 993年 左大臣正一位を贈る 993年 太政大臣を贈る 1004年 一条天皇北野天満宮に行幸 ここでは簡単に書きましたが道真の死後、約100年間にわたって朝廷は彼の祟りを恐れてきたのです。 淳仁は藤原仲麻呂と関係が深かったため、連座のような形で淡路へ流されてしまうのです。
9桓武は父の光仁から皇太子は早良皇子にするよう指示されていましたが、光仁の死後桓武はこれを無視し自分の子、安殿親王(後の平城天皇)を皇太子にすべく、早良に無実の罪を着せて殺したとしか思えないのです。 一つは怨霊の怒りを鎮めること、もう一つは怨霊の進入を防ぐことです。 大伴家持と深い関係にあった早良親王は、証拠もないまま、事件を企てた疑いがかけられ、皇太子を廃され、幽閉されます。
6ですから大国主の年代はの年代と一致しますし、私はこの時代には恨みや怨念を抱いて死んでいった人が怨霊になるとはまだ考えられていなかった、と思うのです。 ところで後白河天皇は権謀術数に長け、後に木曽義仲や源義経を手玉にとって源頼朝から日本一の大天狗、と罵られるようになるあの後白河法皇です。