なお、仙台市博物館には国宝の支倉常長像や彼が持ち帰ったローマ教皇パウルス5世像、彼に与えられたローマ市民権証書などが保管されている。 なぜ支倉常長が、遣欧使節団の正史という重役に選ばれたのでしょうか。
1624年、ソテロが捕縛され、伊達政宗の助命嘆願があったが、火あぶりの刑に処さられた。 途中、サン・ファン・デ・ウルーワに寄港して、嵐に会い、キューバのバナナを経由。
11初名は六右衛門長経。 遣欧使節の正使のソテロも、元和8年(1622年)キリスト教禁止下の日本に潜入を図るが捕らえられ、寛永元年(1624年)火刑に処せられた。
またイエズス会とフランチェスコ会の対立も、スペイン国王やローマ教皇との交渉にとってマイナスであった。 帰路は苦難の連続でしたが、出発から7年後の1620年(元和6年)に仙台に帰ることができました。 政宗は通商交渉と同盟を認めさせるためには、自らキリスト教徒の保護者であるという姿勢を示した。
「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館蔵、国宝)の画像• しかし交渉は失敗 支倉常長は藩主・伊達政宗の命を受けて、 1度目はサン・セバスチャン号に乗り、浦賀より出航しますが、 暴風に遭い座礁、頓挫し、仙台へ引き返します。
18ルイス・ソテロは、ドン・ロドリゴの一行が遭難した際、通訳を務めたので、セバスティアン・ビスカイノの通訳として仙台に同行していた可能性もある。 1619年10月には、2代将軍・ の命により、 の六条河原で 52名を処刑されている。 当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったが、ソテロがスペインだけでなくローマにも使節を派遣することを進言。
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