「そうは言うても、コレがな……」 私は親指を立てた。 「宅見若頭射殺事件」では、当時山口組若頭補佐を務めていた中野会会長・中野太郎さんが絶縁されるなど厳しい処分が下された他、宅見組より報復を受けて中野会幹部たちが殺害される事件が相次ぎました。 だが、中野会長のおかげで、真っ赤な嘘にも耐性がある。
事件発生まで [ ] 1997年(平成9年)7月、当時の中野会若頭補佐のが総指揮をとり、との中野会傘下組織から、宅見の動向を探るための偵察部隊と襲撃するための襲撃部隊をそれぞれ選抜した。 それでも中野会は報復をせず、存続し続けた。 私は正座したまま、電話の向こうの五代目の声に耳を傾けた。
。 その後、同年8月27日に宅見が内のを訪問することがわかったが、その場には中野も同席することがわかったため、またも襲撃は見合わされた。 さらに、実行犯4人のリーダー格で、宅見若頭に4発の銃弾を放って絶命させた傘下組織の鳥屋原精輝元組員は、平成18年6月に潜伏先で衰弱死し、遺体で発見された。
分裂から5年以上経つが、六代目山口組との抗争はいまだ終結する見込みがない。 事件から数ヵ月後、犯行に関わったグループの正体が判明した。 2014年3月11日 第2回公判 財津被告は、逮捕されるまで中野会幹部らの支援を受けながら関東地方のホテルなどを転々としていたことを証言。
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