道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。 天明3年、土用になっても「」によって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。 大量の救援米が西国に回された結果、江戸の米価が急騰し、日本橋の米問屋 高間伝兵衛 ( たかまでんべえ )の店が襲撃されたのです。
自然災害による例を分類すると、• 『複合大噴火 1783年夏』、、• 決死の百姓パワーが、八戸藩の家老野村軍記を失脚に追い込み、農民の処遇改善二十一ヶ条の要求の一部を認めさせた。 もっとも悲惨だったのは 弘前藩で、死者は10万人以上、逃亡者も含めると藩の半分以上もの人を失いました。
20さて、南部藩のことを調べていて分かったのですが、慶長5年 1600 から明治元年 1868 まで268年間に85回の大凶作に見舞われています。 大飢饉が起きたのは気象条件や噴火も大きな理由ですが、当時の政治も原因の一つだったと言われています。 其の製法は、能わらのあくをぬき粉にはたきて、一升あらば米粉三合まぜ合わせ、蒸し搗て餅となし是を喰ふ事なりき。
10(水野忠邦 出典:Wikipedia) また、藩政の危機に直面する諸藩は藩政改革により、藩権力の強化を目指します。 『餓鬼草紙』(国会図書館HPより) しかし、現実には、人間道はしばしば餓鬼道より悲惨でした。 食糧不足になれば、たちどころにして飢饉となるからです。
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