将軍家との一時的な和睦と反発 この動きに長慶は家臣・松永久秀兄弟に命じて4万の軍で迎撃します。 この翌年には13代征夷大将軍「足利義輝」が、「三好長慶」の一族である「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」に暗殺されます。 その後、夏の陣で焼失するも、沢庵宗彭らが再建、国指定名勝の枯山水の庭、国指定重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休ごのみの茶室実相庵などがあります。
三好長慶の戦歴を見ていくと、同じような相手と戦い、勝利ししては和睦し、また戦うと次は負けか和睦、というように「合戦」と「和睦」を繰り返していることに疑問を感じます。 三好家の衰退 永禄5年(1562年)8月、幕府の政所執事・伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じ、京都で挙兵します。 天文20年(1551年)に、実際に義輝の刺客に長慶が襲撃されると言う、暗殺未遂事件が起こっています。
長慶の死後、嗣子の義継が若年である事から松永久秀・・三好三人衆らは喪を秘して重病であるとし、2年後の永禄9年()6月24日に葬儀を営んだが、その際に参列の諸士が涙を流してその死を惜しんだという(『』)。
4また、天野忠幸は長慶の嫡男である義興が将軍から一字を与えられ、三好氏歴代の官途である筑前守に任ぜられたことを重視して、長慶の拠点移行と三好氏の本拠地の問題は別の問題として捉え、飯盛山への移転によって三好氏の家督は事実上長慶から義興へと譲られ、同時に三好氏の本拠であった芥川山城も新しい当主である義興に継承されたと説いている。
6義晴はやなどの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人のと嫡子の義輝を八瀬に避難させた。 三好長慶は畿内周辺にいわゆる「三好政権」を樹立。 スポンサードリンク 松永久秀の見ていた世界 松永久秀は商人出身とも言われておりますが、その出自ははっきりとは分かりません。
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