115• 復刻 「寄組国司家」『近世防長諸家系図綜覧』田村哲夫編修、三坂圭治監修、、1980年11月、復刻版。 石清水八幡宮と言えば、平安時代から王城鎮護の神社であり、源氏の氏神として軍神を祀る神社でもあったので、足利勢も手荒な攻撃はできないと南朝軍は考えていました。
182020年10月10日閲覧。 その後、 と らによって「尊氏の嫡子であるが図像の人物の上に花押を押し、自分より格下の人物として扱っている(父の図像に対する行為としては有り得ない)」「図像の人物の武具に高氏の家紋が描かれている」ことを主たる理由に、高師直説が唱えられた。 太平記では、高師直の死についてこんな意味深な言葉を書き残しています。
18『肖像画を読む』 角川書店、1998年• 1449-1452• 代表歌は、南朝の武将を倒した際に、その顕彰としてに奉納した「天くだる あら人神の しるしあれば 世に高き名は あらはれにけり」(『風雅和歌集』)。 南への優位性によって戦時体制から時体制に移行しようとしたのがその始まりのようだ。
「師直の恋」「狼藉なり」(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年)• 両者は一進一退の攻防を続けますが、直義が南朝に味方するという奇想天外な奇策を用いて高師直を撃破。 後年、太平記の流布と共に師直は史実のように尊氏に忠義を尽くした文武両道の才人では無く、非道で欲の深い悪人として描かれ、以下のような描写で知られます。 なんと直義は南に降伏し、、、、といった直義の諸将を率いてに攻めてきたのである。
16余談 高師直と最期を共にした武士の中に、鹿目(かのめ)左衛門尉・鹿目平次兵衛尉という者がいた。 積年の恨みを晴らすかのように、師直の首は切り落とされ、胴体は川に投げ捨てられるという、非常に無残な殺され方だったと伝えられています。 1464-1467• 1468-1473• 特に、師直と直義は性格的に正反対だったことも相まって、抗争は激化。
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