いけしゃあしゃあと。 父を叩く娘 角栄の元側近は昨日のことのようにこう語る。 真紀子は、こうして父親の 築いた人間関係をすべて断ち切っていったのです」 しかし、最も悲惨だったのは、当の角栄本人であったことは間違いない。
15真紀子の金脈問題を追及しているジャーナリストの野田峯雄はこんなことを いった。 罰として、素っ裸で母屋の階段を昇り降りさせられたり、雨の中、玉砂利の上で正座させられて謝まらされたお手伝いさんもいます。
悲劇というより唖然とするエピソードである。 <自民党時代> 1994年に1年生議員ながら当時の村山内閣の科学技術庁長官として初入閣して話題を呼びました。
同年11月、2013年春に開学を予定していた大学3校を「大学が多すぎ、質が低下している」と発言し認可しなかったことから関係各所を巻き込んだ騒動に発展しますが結局文科省は11月8日、新規3校についても正式に認可しました。 長男の京によれば、 「父はいつもSP付きの車で突然帰って来ました。 2人目の娘(次女)に関しての情報は見つかりませんでした。
3角栄が倒れるまでは、10人前後が普通だったが、倒れて以降は、数人となっ た。 彼女はその後、誰とも 接触せず、沈黙を続けていますが、お手伝いさんの中にはそのことを知っている 人もいるんです……」(古参秘書) 外務省で秘書官に書類をぶちまけたり、指輪を買いに走らせたりするレベルの 話ではない。 再婚で静 子さんという連れ子がいたこともあり、負い目もあったのでしょう。
17そんななか、田中真紀子はご結婚されて、 3人の子供を授かりました。 同期には久米宏や長塚京三がいました。 田中角栄が天才だったのかどうかは、その時代が決めることです。
もう、(田中家との関係は)過去のこと だ」 と、突き放す。 でも、子供の頃はまだ可愛くて愛嬌 もあったから、オヤジもそのままにしていたんだね」(同) そんな時、母親のはなが本来なら娘に対して果たさなければならない役割は大 きかったはずである。
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