勇と横倉の眼と眼が合い、どちらからともなく、かるく頭を下げあった。 そして土佐藩が押し切り、中山道板橋刑場において近藤勇は 斬首刑となったのです。 12月15日に近藤らは長州藩の・領の新湊(新港町)において岩国藩との会談を要請するが、これも拒否されている。
8この頃に養父の近藤周斎の病状が悪化し、長兄の宮川音五郎から江戸帰還を求められているが、近藤は京の政情不安を理由にこれを断っている。 原田・永倉との別れ 敗走後、江戸に戻った近藤勇は八王子で江戸退去を宣言。 一族のは天然理心流9代宗家となっている(近藤勇は4代宗家)。
4近藤勇亡き後の戊辰戦争では、新撰組時代と異なり一切の女と酒を断ったとか… 山南敬助と明里(あけさと) 山南敬助は浪士組(新撰組の前身)では副長を、新撰組初期では近藤、土方に次ぐ総長を勤めましたが、後に脱走により切腹。 永倉新八『新撰組顛末記』に拠れば、浪士募集を受けを除く近藤ら試衛館の8人はこれに参加することを決める。
7伊東らは3月12日に帰京、翌13日に近藤・土方らに分離を申し出て、了承された。