明徳4年(1393年)、左大臣辞任。 楽天AD しかし、後円融帝の死後に後小松天皇が政治への関心を全く持たず義満に反論できる公家が存在しなかったことから、義満の専横によって 『朝廷の叙任権(人事権)』が完全に握られることになりました。 1358年8月に足利義満は誕生しました。
10朝廷(天皇)が、南朝と北朝に分かれていた当時、これをひとつに統一しないと、幕府を強くできないと義満は考えたのです。 「興福寺五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基が落雷で焼失した。
81408年 50歳 足利義満死去。