これを聞いた公家の山科言継も驚いたことでしょう。 。 通称は土田甚助と称していました。
最初は「えっ?」と思ったのですが、その本意は「信長をいじめてください!」ということでした(笑)。 濃姫は信長と結婚。
身内(叔父)の家来によって誤って射殺されてしまうのである。 土田御前の心情は如何なるものであったのだろう。 一度は命乞いをしてまで生き延びたにもかかわらず、再び謀反を企てようとしたと知ったときの、織田信長の心情はどのようだったのでしょうか。
13土田御前は織田信長を嫌っていたものの、織田信長と織田信勝の実母であり、戦場に立ったわけでもありません。 現在、土田城後と伝わる場所は、可児市土田にあります。 織田信長は、数少ない理解者と後ろ盾を失ってしまう状況にありました。
10確かに、信秀の死後、土田御前は信長のいる那古屋城ではなく、信行のいる末森城で暮らしているから、親子関係がギクシャクしていたのかもしれない。 「信長公記」には「道三の息女」としか書かれていないのです。
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