第7代肥後熊本藩主「細川治年(はるとし)」の代まで、藩主にガラシャの直系の血脈が流れていたのですが、残念なことに「治年」は実子に恵まれなかったのです。 ガラシャもカトリックの信者として、ロザリオを用いて聖母マリアに祈りを捧げていたはずです。
光秀の直筆の短冊、明智家家臣の高禄台帳、系図なども伝来していたそうですが、関東大震災の時に消失してしまったそうです。 , p. ガラシャの壮絶な最期は、石田三成を驚かせ、諸大名の妻子を人質にとる西軍の作戦にマイナスの影響を与えたのです。
10「立田自然公園」 3つ目のお墓は、立田自然公園 熊本県熊本市 の中にあります。 天正9年には、細川藤孝・忠興が、父・明智光秀や津田宗及、山上宗二、里村紹巴を招いて天橋立で茶会を開き、玉子 ガラシャ は幸せな時を過ごしました。 この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。
ですが、本能寺の変が起こると光秀の娘婿である為、光秀と共謀したと誤解され織田信孝 おだ のぶたか 信長の息子 らに襲撃され討ち取られてしまいます。 慶長5年(1600年)、打倒徳川家康をかかげて挙兵した三成は、細川家にガラシャの引き渡しを要求したのち、それを拒否されると細川邸を襲撃してまでガラシャを確保しようと躍起になりました。
7父親は明智光秀、母親は煕子(ひろこ)で、三女(次女説もあり)として越前国で生まれたといわれてます。 165• また、明智の子孫が集まる「明智の会」でなら、情報を得られるかもしれないとも思いました。